18才の初夏も愛車をいつものように風を切って爽快に走っていきました。
当時の少年の身長165p 体重52`と比較的痩せていたと思いました。
海岸沿い走行中ギアチェンジをしたらガキッ!ガキッ!t変な音がチェンジぺダルのあたりからしました。その時からセカンドギアとサードギアで加速するとノッキングが起きて締まりどこが悪いんだろうと父に聞いてみたらミッションとシフトアームあたりの変速がおかしいと言っていました。一応 父親もエンジニアですがCB750のミッションはわからないと言ってなんとなく冷たい対応でした。
やはり昔の人間なので自問自答しながらやれみたいな感じでしたので、しかたない自分でやるしかないと思い当時は「ホンダSF」というホンダ車専門のディーラーぽいのがあったと思いますがほとんど四輪車のメンテナンスが主でした、でもそこにとても二輪メンテナンスに詳しい方がいて名前は忘れましたが整備の仕方を教えてもらいました。サービスマニュアルがあったかもしれませんが少年は小さい時からプラモデルを作るときは説明書を見る事なく作っていましたからサービスマニュアルを仕入れて見ながら作業をすることは全く考えられませんでしたのでその詳しい人の言葉を参考にして自分でやることにしました。
当時は、高校から帰ってから店が閉まるのがだいたい9時頃だったので10時ごろから始めていたと思います。色々ありますが修理の内容は要するにタンクを外してマフラー・キャブレター・ステップ回り・配線回りを外す。そしてエンジンを下すことからはじまります。一応ブルーの作業つなぎは欠かさず着るのとあとは気合いです!CB750のエンジンはたぶん75~80sと重さでしたがやはり気合いででエンジンを下しました。CB750の場合、ミッションを修理するにはエンジンを逆さまにしてクランクケースの下側を外せばできると聞きましたので行いますがクラッチカバーやダイナモケースも外さないと駄目なのでそれ以前に外したパーツやボトルナットをちゃんと保管しないと組めなくなると思い外したパーツを新聞紙に包んで分かるようにしました。
このやり方は、今現在の作業に役に立っていると思いますし知恵ができてくることに我ながらと思いました。なんとかクランクケースを外しましたが気が付くとあたりはオイルだらけでつなぎもオイルまみれとなったのはとても懐かしく思います。ただ、開けてみてもギアの構造がいまいちわからず苦戦して当然勢いで作業しますので10時頃から始めて一気にやらないと忘れてしまうので夜中の2時や3時となります。母親が何回か心配そうに見に来て「もぅ 明日にすれば」と言って聞き分けがない少年でしたので納得がいくまでやってました。なので2回・3回かけて1速、ニュートラル、2速、3速…をなんども確認してもどこが悪いか分からず悩んでいた時、ある時アメリカ人の男の人が店にやってきました。たぶん30才くらいと思います。そして、一緒に考えてくれました。
そのアメリカ人の男の人はたぶん横須賀基地で働いている方と思います、全く日本語がしゃべれなかったのですが筋肉ムキムキでTシャツにジーパン姿でアーノルド・シュワルズネッカーみたいな男性と記憶しています。
考えられる原因は、ギアの損傷とシフトアームの曲がりかと判断して修正や研磨して、3日間くらいかけて組み立てしました。名前は定かではないですがジョンとかジョージかと思います。相手も少年のことを「リョー(RYO)」と呼び合うようにもなり初めて気の合う外国人でもあり言葉は通じなくてもバイクのパーツ名はローマ文字なのでなんとなく通じ合えて笑顔が交わせる仲になれた気がします。組あがったバイクをここでは“ジョン”としておきましょう。ジョンが俺に乗せろというのでもちろん「OK!」と答えましたが10分くらい乗って帰ってきたら一言「NO!」と言ってたので少年も乗りましたが要するに直っていませんでした。実は2回もエンジンをばらしたのと時間をかけてオイルまみれになり体力もつかい果たしたのでそれでもいいと思いましたがジョンが「Once more!」と何度も言っていて「What time」と言い続けたので渋々日時と時間を決めました。もちろん閉店後になります。でも今度は、ジョンが最初から手伝ってくれたので大変早くバラすことができもぅ一度ミッションを眺めながら考えました。やはりミッションギアとシフトアームを交換しないと駄目と判断しました父親に了解を得てもらいましたがパーツ代は高かったと思いました。店の経費で払ってもらいました。現状のパーツと新しいパーツがこうも違いがあり摩耗していることに初めて知ることができ勉強になりました。2日間かけてジョンと一緒に組み上げて3度目の正直って感じでした。やはりジョンが俺に乗せろって言うので運転をすると思いきやちょっと走って戻ってきて「GO!」と言ってましたがはじめてみましたアクセルを戻さずギアチェンジ、もの凄い加速で狂ったような感じでした。戻ってきてなんと言った英語かわかりませんがしばらく戻ってきませんでした。その後、少年も以前よりスムーズに走ることができ嬉しくなりました。やはり緑色の車体はイケてる
改めて気に入りました。そして、数日経ったある日、ジョンが来てあのバイクまた乗せてくれと来たので乗せてあげました。手伝ってでもらったこともあるし、そして何回か乗せた。ある時、俺に譲ってくれと言いました。「えっ!!」と思いその時は「NO」と答えましたが何かわからない英語を言って不気味な微笑みなので「NO!」ともう一度言いました。その日は諦めて帰って行きましたが、今度はジョンと女の人を連れて少年の所に来ました。
女の人は、ジョンの通訳という立場でした。ジョンがどうしてもRYOのバイクが欲しいと引き下がらないとの事ですごく熱意は伝わりました。少年も考えて考えた結果根負けという感じでしたが本当にバイクが好きでジョンも手掛けた所もありバイクに対する愛情が現れだと思います。値段はいくらで譲ったかは覚えていませんが安かった事は覚えています。その後、やはりバイクが欲しくなり知り合いの店のお客さんのCB550Fを自分なりにバックステップにしたりバックステップといってもぱーつは無かったので自作で作ったりマフラーも4in1のマフラーを溶接を見様見真似で作ったりもちろんタンクサイドカバーは緑色に変更しました。そのバイクも結構おもしろいバイクで楽しみました。
その後は、色々なバイクを乗ることになりましたその後のバイクは緑にこだわらず乗ってたと思いますが 山上 良」19才からまた緑にはまりパブリカスターレットは、もちろんオールペイントして緑になりカッコよく乗りました。
色彩のこだわりはひとまず終わります。